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1934年(昭和9年)に[1]美恵子は金澤からオルガンの伴奏役としてハンセン病療養所施設の訪問に同行してくれないかと求められた。叔父とともに多磨全生園を訪れた彼女は、患者の病状に強い衝撃を受けた。後に彼女は、(ある種の「召命感」的な直感とともに)、この時に自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、と語っている。 美恵子は医師としてハンセン病患者に奉仕しようと決意し、東京女子医学専門学校の受験勉強を開始した。彼女の意志を知った両親や津田英学塾の星野塾長はこれを諌め、1935年(昭和10年)に本科を卒業すると塾長の薦めに従い大学部へと進学した。当時の津田の大学部では、数名の生徒に対して西脇順三郎が英語を、玉川直重がラテン語を教えるなど貴重な教育体制がくまれていたが、美恵子はハンセン病治療に寄与したいという思いを捨てきれなかった。彼女は当時死病であった結核に感染したため軽井沢へと療養に送られたが、組織的な勉強の重要性に気付いた彼女はその訓練をかねて秋には旧制高校の教授資格である英語科高等教員検定試験に受験しこれに合格している。一旦は病状が収まったものの、翌年に再発し再び療養生活へと入った。死ぬまでに古典文学を読んでおきたいとベッドの上で独学に励み、イタリア語でダンテを、ドイツ語でヒルティを、さらに古典ギリシャ語で新約聖書を読み進めていった。その中でもマルクス・アウレリウスの『自省録』(ギリシャ語)は彼女の生涯を通しての座右の書となった。結核は医師の薦めで受けた人工気胸術によって完治している。
更に、今、電子カルテというのがなかなか普及しないということで、いろいろと新聞紙上等にも出ておりますが、これは逆にマイカルテをつくろうというものでして、自分の医療情報を逆にサーバー上に置いておきまして、携帯の方で自分のコレステロールとか、血圧とか、あるいは尿検査の結果等を、むしろ医療の先生の方に見せようと。そうすれば、どこかでやった診断を再度やる必要がなくなりますので、一番最新の情報を常に示すことから、医療経済上もかなり削減できるんではないか。将来的には、電子カルテとリンクすることによって、恐らく医療現場に入ると同時に携帯を乗せれば、そのまま両方の双方向ができるようなシステムができるんではないかと思っております。